みなさん、『モンテッソーリ教育』をご存知ですか?
育児・子育てをされている方なら一度は耳にしたことがあると思われるモンテッソーリ教育
おそらく、藤井聡太さんがモンテッソーリ教育を受けていたというニュースで、爆発的に有名になったと思われます。
そんなモンテッソーリ教育ですが、そもそもモンテッソーリ教育はどのようにして生まれたかご存知ですか?
今回はモンテッソーリ教育の生みの親である、マリア・モンテッソーリとはどんな人なのか、モンテッソーリ教育の誕生についてお話していきたいと思います。
今回の話を聞けば、モンテッソーリ教育の理解がさらに深まると思います。
興味があったらぜひ読んでみてください。
マリア・モンテッソーリ
イタリア初の女医であるマリア・モンテッソーリ
モンテッソーリは1870年裕福な家庭に生まれます。
同時期日本は、1871年に文部省(現在の文部科学省)ができ、1872年「学制」が誕生した頃です。
しかし、女性の教育は国語や裁縫など中等教育を施す施設ではありませんでした。
一方でイタリアも同様に女性差別の残る時代でした。
そんな時代の中、モンテッソーリの母は当時としては先進的な考えを持っており、モンテッソーリに学習の機会をたくさん与えます。
そして、学問に励んだモンテッソーリはローマ・ラ・サピエンツァ大学医学部に女性として初めて入学します。
この当時、女子が大学進学、ましてや医学部に進学することは前代未聞の出来事だったそうです。
この背景には、地元の有力者であった両親が学校を説得したことがありました。
それほど当時は女性の教育についての意識が日本同様に低かったのです。
しかし、ここからが本当の試練の始まりでした。
モンテッソーリは女性であることを理由に、男子学生と一緒に解剖実習に参加できず、実習が終わってから1人夜遅くまで実習室で解剖を行っていたそうです。
そんな度重なる性差別に耐えかね、別の職業で暮らしを立てることを決意し教室を飛び出していくのでした。
特に医学界は女性への差別が激しく、その名残は現代にも残っています。
モンテッソーリが帰宅するために公園を歩いていると、物乞いの親子がいました。
物乞いとは、路上で他人にものを恵んでくれるように頼むこと
日本では法律で禁止されているので馴染みがないと思いますが、発展途上国のみならず、世界では物乞いを見ることはよくあります。
母は疲れ切って虚な目をしていましたが、そんな母をよそに、子どもは小さな色紙で遊びに興じていたそうです。
ただの紙切れを持ち、穏やかに満ち足りた表情をしている子どもにモンテッソーリは衝撃を受け、それ以降大学を辞めたいと思うことなく学業に専念したそうです。
そして、1896年はれてイタリア初の医学博士号を取得したのでした。
モンテッソーリの出会い
女性として医学博士号を初めて取得したモンテッソーリですが、卒業後の道も険しいものでした。
当時女性が医師になることに否定的だった医学界で、なかなか就職先が見つからないなど理不尽な状況が続いていました。
そんな中ようやく得た仕事は、当時医学とはかけ離れた劣悪な環境であったローマ大学付属の精神病院の医師でした。
患者は鉄格子に囲まれた暗い部屋に監禁され、治療らしい治療が行われていない状況でした。
そんなモンテッソーリは、ある知的障害のある子どもが床に落ちたパン屑で遊ぶ姿を見て、知的障害のある子どもも感覚的な刺激を求めることを発見します。
そして、指先を動かし触れることで感覚的な刺激が得られるおもちゃを渡し、その後どのような変化が起こるのかを観察し始めました。
すると、数ヶ月後に知能テストを行ったところ、明らかに知能の向上が見られる結果が得られました。
そして、障害児であっても、感覚を十分に使うことで時に健常児の知能を上回る結果が立証され、モンテッソーリはイタリアの教育界、医学界で一気に知られるようになりました。
モンテッソーリ教育の誕生
障害児の治療教育で功績をあげたモンテッソーリは、健常児の教育にも応用できると考え、ほとんど教育を受けていない貧困家庭の子どもを対象に「子供の家」をスタートさせます。
ここでも、ここでも初めは教室の中で暴れ回り、じっとすることができなかった子どもたちが、感覚を刺激する教具に触れることで、穏やかで落ち着きのある様子に変貌したのでした。
モンテッソーリは自らが行ってきた方法を追求するため、医師を辞め、ローマ大学へ再入学します。
そして、生理学や精神医学、知的・発達障害者教育の先駆者であるエドォアール・セガン医師の元で学び、モンテッソーリ教育を確立させていくのでした。
最後に
教育熱心であったモンテッソーリの両親は、実は彼女に教師になってほしいと望んでいた。
しかし、モンテッソーリは両親の反対を押し切ってイタリアで初めての女医になった。
だが結局、世界的な教育者となり、両親の願いも叶えたのであった。